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『老いと死を考える』

みなさんは「死」という誰もが避けて通ることができない事柄について、普段から考えたり意識することはありますか?

大病を患ったり、事故で生死の境を彷徨ったりすれば、自ずと死というものを意識せざるを得ないと思いますし、あるいは高齢者の方々であれば、加齢とともに起こる様々な機能の衰えによって今まで普通にできていたことが徐々にできなくなり、老いというものを実感することで、いずれ訪れるであろう死を考えるようになるかもしれません。

くぼた整骨院には小さいお子さんからご年配の方まで老若男女問わず、幅広い年齢層の方々が様々な症状を訴えて来院されますが、とくに高齢者の方々は、先ほども書いたようにいわゆる加齢に伴う筋力低下やその他様々な機能の衰えによって問題が生じているというものも少なくなく、そういったケースでは対症療法的に目の前の症状を和らげつつ、痛みの程度等も考慮しながら、できる範囲での運動や筋トレの指導を行ったり、あるいは食や栄養と痛みや不調の関係などのお話をします。

そういった話をするのは、これもこのブログで何度も書いていることかもしれませんが、くぼた整骨院で行う施術はあくまでも対症療法でしかなく、したがって何かしらの対症療法で症状が落ち着いたとしても、なぜその問題が生じているのかといった事柄に目を向けず、根本にある原因が解消されない限りはまた問題が生じてくることが考えられるからです。

今は人生100年と言ったりしますが、なるほどたしかに新聞のお悔やみ欄を見ても90代やそれこそ100歳以上で亡くなられる方も少なくない印象です。

これも患者さんによくお話ししますが、すると大抵の人は「そんなに生きたくない!」ておっしゃいます。

ですが、嫌だと思ってもいつ死ぬのかなんてことは誰にもわからず、もしかしたら僕だって100歳まで生きてしまうかもしれず、要するにあちらからお迎えが来ない限りは死ぬことはできず、それまでは生かされ続けるということです。

そして、もしもそうなった場合に100歳だけれどもある程度自分でなんでもでき、自分の足で歩くことができ、なんでも食べることができるのか、あるいは寝たきりで歩くことも食べることもできないけれども死ぬこともできないという2択を考えた時、たとえば筋肉のあるなしといった事柄であったり、あるいは日頃からの食生活、さらには思想や哲学など、その人自身の人生観や死生観といった生き方そのものが、年齢を重ねてからのいわゆる健康寿命というものに大きく関係していて、それが両者を分ける重要な要素になることは、おおよそ間違いありません。

だからこそ、今後さらに年齢を重ねていってもある程度は自分でなんでもでき、末永く元気でありたいと願うのであれば、日頃から身体を動かし、好き勝手に飲み食いせず、そしていずれ来る死に対しても自分自身で意識的に考えるということも、やはり大切なことのように思います。

そして、当たり前ですが植物も動物も生き物はすべて、いずれは死を迎えます。

言い換えると、この世に生を受けたその瞬間から死に向かっているとも言うことができるかもしれません。

お釈迦様はこの世の理として生老病死を説いているように、この原理原則からは誰も逃れることはできません。

不慮の事故や病気などによって、若くして亡くなられる方もいますが、そうでなければ誰もが老いというものに直面し、身体機能の衰えによって様々な不調が現れやすくなり、ある人は病気を患って死に、またある人は身体機能の衰えが極まることで、まさに花が枯れるように死んでいきます。

前述したように、末永く元気でありたいのであれば身体を動かすこと、日頃からの食事、生き方自体が大事であることは間違いないとは思いますが、しかしながら死に向かって生きていく以上は、その過程としての老いもまた避けて通ることは不可能であり、したがって老いとともに現れてくる様々な不調もまた、対症療法的に対処しながらもある程度は「しょうがない」と思えるかどうか、そういった事柄をある程度許容し、受容する精神性を培うことも、生きる上では大切な要素なのではないかと考えます。

たとえば以前に腰痛で来られた方が、一度良くなって数年後にまた腰痛でいらっしゃるなんてケースはたくさんありますが、前回は一度の施術で良くなったけれども、今回の腰痛はなかなか痛みが引かないといった場合、「前回はすぐに良くなったのに今回はなかなか良くならないのはなぜですか?」と聞かれたりします。

たしかに痛めた程度の問題もあるかもしれませんが、加齢とともに身体の柔軟性や筋力自体も衰えているから、そして自然治癒力といった元に戻そうとする機能も徐々に弱まっているから治りが遅いということが言えるかもしれません。

一概には言えませんが、再発を繰り返すほど徐々に症状も重く、治りにくくなるといったことは往々にしてあることであり、これもまた老いによる加齢的変化の影響であるとも言えるかもしれません。

日々、何気なく生きていると、とくに自分自身の身体の変化(老い)に気がつかないことも多く、しかしながら身体は確実に変化しているから痛めやすいし治りにくいということです。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とか、「諸行無常」といった概念があるように、まさしく生き物である人間もまた、一見すると変わっていないように見えても、老いとともに刻一刻と変化し続けているということに他なりません。

様々な不調や病気になっても、歳なんだからあきらめろと言っているわけではけっしてなく、前述したように対処はしつつ、しかしながら老いという現実を受けいれて、ある程度しょうがないことなのだと許容することも、真の意味で心身ともに健康であると言えるのではないでしょうか。

見方を変えれば、老いとは「どうやって死んでいくのか」ということを考えるために与えられる準備期間なのかもしれません。

いつまでも健康でいたいと願う人は多いかと思います。

そして、加齢とともに現れてくる様々な不調や不具合に対して憂慮したり悲観したりする人も多いのではないかと思います。

しかし繰り返しになりますが、人はみな、いずれ死にます。

日頃から死というものを意識する、考えることは老いを自覚することでもあり、それが生に対する執着を手放すということにもつながり、すると加齢とともに起こる様々な不調や不具合といった事柄に対しても、あれこれ思い悩むといったこともなくなっていき、自然と「まあ歳だからある程度はしょうがないよね」と許容できるようになるのではないかと思います。

そして、そういった心持ちでいられるようになると、自ずとまた健康や生に対する執着も薄れていき、ひいてはいずれ訪れるであろうその瞬間を、心穏やかに迎えられることにもつながっていくのではないでしょうか。

山梨県甲府市の整骨・整体 くぼた整骨院

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